インタビュー

第10回は漫画家の武富 健治先生です。。

武富 健治先生

代表作『鈴木先生』は2007年文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞。 2010年春にテレビ東京系で連続ドラマ化され2013年には同作の劇場版が公開されました。 学校や子ども達が抱える問題を大胆な切り口で描いた武富先生の作品は大きな注目を集めています。

今回は2010年に武富先生がは参加した「ドルフィンプレイ」で印象に残った出来事や、ご自身がマンガ家になるまでの体験談などをお伺いしました。「ドルフィンプレイ」の様子などは
『御蔵島体験記』(マンガ:福原雅也)
NPO法人CROP.-MINORI-
※インタビューは「ドルフィンプレイ」の後日に催された「写真交換会」の時に収録したものです。(2010年10月)

タイトル : 自分に合う道をみつける勘を磨いてほしい

Q.武富先生が現在連載されている作品について教えてください。

双葉社の「漫画アクション」で、『鈴木先生』という中学校の先生と生徒達の人間模様を描いた作品を描いています。  ※2013年現在、月刊コミック アース・スターにて『惨殺半島 赤目村(ざんさつはんとう あかめむら)』を連載中。

Q.どのようなことがきっかけでマンガ家を目指そうと思われたのですか。

小学校2、3年くらいの頃からマンガを描いていて、クラスで友達と見せっこをしたりしていたので、気づいたら自然とマンガ家を目指すような感じになっていました。

Q.最初から「マンガ家になるんだ!」というはっきりとした意識があったのでしょうか?それとも初めは漠然と「マンガ家になれればいいな~」というような感じでしたか?

そうですね、当時の自分にとって、マンガ家を目指す事はごく自然な感情になっていたので、「難しい目標!」と気を張ることなく考えていたと思います。

Q.小学生くらいだと“マンガ家になりたい”と考えてはいても、多くの子はノートの端にイラストやマンガ絵を描くという感じだと思うのですが、武富先生の場合はどうでしたか?

僕の場合、どちらかというと絵があまり得意ではなかったので、逆にコマ割や物語づくりなど『マンガ』という形でしか描けなかったんです。イラストで描くと絶対に絵の上手い子には負けちゃう。だから『マンガ』でしか勝負出来なかったという感じでした。

Q.それは、最初からかなり本格的な感じですね。

小さな紙にストーリーを書いて、そこからキャラクターを設定して描いていくという感じでした。鉛筆描きではありましたけれど。それがもう一段濃くなったのは小学6年生か中学1年生くらいの頃でしたね。小さな紙から大学ノートに描くようになっていきました。いわゆる雑誌のサイズです。それにコマを割って描くようになっていきました。 でも、内容は好きなマンガのパロディーというか、類似品みたいなものでしたけれど(笑)

Q.その頃はどういったマンガがお好きだったんですか?

週刊少年サンデーと月刊の増刊少年サンデーに夢中でしたね。当時僕は中学生で、雑誌を購読することに一番夢中になっていた時期でした。

Q.編集部への作品持ち込み等、本格的に行動しだした時期はいつ頃でしたか?

高校3年生のとき「藤子不二雄みたいに2人でデビューしよう」と言っていた友達がいて、その友達と合作で少年サンデーに持ち込みに行きました。結果は全然駄目でしたが。

Q.結果はさておき、初めての持ち込みを通じて、何か手応えとかはありましたか?

残念ながら手応えは全く無かったです!(笑) 持ち込みという形で当時募集していた賞にも応募したのですが、編集さんには「まぁ駄目だろうけど賞には回しておくよ」と言われまして。で、やっぱり駄目で・・・。でも、その後も一人でマンガを描き続けました。そうしたらわりとすぐ講談社「アフタヌーン」の賞の端っこの方に入ったりして、なんだか行けそうな感じかな!?と思ったんですね。19歳くらいの時です。ところが、その後も佳作止まりがずっと続きまして。担当が着くようにはなりましたが、雑誌に作品が掲載されないという状態は延々と・・・(苦笑)

Q.どれくらいそういった時期が続いたのでしょう?

最終的に作品が掲載されたのは27歳の時ですから、8年くらいそんな状態でした。デビュー後も8年くらいうまく行かなかったので、合わせると16年ですけど(苦笑)。大学を出た後は、仕送りと他の漫画家さんのアシスタントで生活を支えていましたね。

Q.大学時代、マンガ以外に何か興味を持っていた事などありましたか?

僕は国語や文学が大好きで、文学部や国文学科がある大学に入りたかったんです。けれども現役の時の受験は全敗で、一浪後も青山学院大学の2部しか合格をもらうことができませんでした。しかし、当時の青学2部には国文学科がなかったので、教育学科を選択することにしました。小さい頃からずっと、自分の中にはマンガ家になるという選択しかありませんでしたが、強いてもう一つの人生を考えるなら国語の教師かなと思っていました。なので、大学の授業は楽しかったですよ。

Q.大学を卒業してから27歳で作品が雑誌に掲載されるまで、結構長い道のりだったように思いますが不安等はありませんでしたか?

確かに不安はあったとは思うのですけれど。本当に昔から当たり前のようにマンガ家になると思っていたので、逆にその目標をチェンジするという事のほうが、僕にとってものすごく勇気がいる事だったんです。だからむしろ、「勇気が無かったからズルズルと来られた」という感じです。あと、賞の端っこには度々入ったりしていたので、大学のマンガ研究会でも「コイツは早々にマンガ家になるんじゃないか?」みたいに思われていたプレッシャーもあり、それで引くに引けなかったというのも(笑) 今にして思えば、本当にありがたいことですが、早いうちに何度か賞を頂けて、誉めてもらえたことが“漠然と行けそうな気持ち”を自分に与えてくれたのかもしれませんね。

Q.『鈴木先生』というマンガを連載されていらっしゃいますが、舞台を学校にしてみようと思われたきっかけは何ですか?

僕は社会経験があまりないので、“自分の知っているもの”と“読者の知っているもの”それを並べて考えた時、学校しか思いつかなかったんです。あと、短編作品をいくつも描いていた時代に気づいたのですが、現在の自分の悩みや考えを等身大の大人の考えとして表現するよりも、中学生に置き換えて描いたほうが読者に楽しく読んでもらえるようなんですね。この二つをお得にまとめると、舞台は中学校だ!と(笑) ただ、中学校を舞台とする作品は持ち込み時代にも何度か作っていましたが、その時はなかなか上手くまとまらず、デビュー作はサスペンスものだったりします。でもその後も何度も挑戦して、今回の作品につながっていったんです。

Q.『鈴木先生』という作品が生まれるまでには、ご自身の経験や、表現者としての様々な試行錯誤といった背景があったわけですね。さて、マンガ家を目指していて辛かった事などありますか?

そうですね。一番辛かったのは自分の中では作品が良くなっているのに、編集さんとか読み手の評価が下がっていくことでした。そうすると何が“良い”のかさっぱりわからなくなってしまうんです。

Q.そういった時は、どう対処なさったのでしょうか?

自分の場合はどうしようもなかったです。もう、身動きが取れなくて。でも何年も作品が載らない時期が続くと、自然と別の方向を考え出すという感じでした。時間をかけてアイディアが降りてくるのを待って、それが出てきたらそれを描くという。ノロノロとね(笑) 無理してひねり出すことがどうしても出来なかったんです。

Q.そのあたりも含め、マンガ家を目指している子ども達に何か一言アドバイスがあればお願いします。

人によって悩む所が違うので何とも言えませんが、「自分の中で締め切りを設けない方がいい」と思います。最初から何事も焦らずスムーズにやるというのは無理ですよね。実際は、自分が見積もっているよりたくさんの時間が掛かるもの。そう思ってかかるのがいいんじゃないでしょうか。

それともう一つ、他人のアドバイスにこだわらず、自分の気持ちで道を選ぶこと。

これは僕自身のことだけじゃなく周りも見て感じたことですが、マンガ家に限らず目指す職業に就くためにはいろんなアプローチの仕方があって、どんな方法を取っても、それで成功した人と失敗した人が両方いるんです。だから、僕が今言っていることを実践したからと言って必ずしも上手くいくとは限りません。結果的に目指した仕事ができるかどうかではなく、いくつもある道、いろんな人がいろんな事を言う道の中で、「自分に合う道を見つける勘」を磨くのが良いのではないかと思います。無意識の選択能力みたいなそういう嗅覚ですね。「自分に合うやり方」と「自分の好きなやり方」は、異なることもあるので、その見極めは難しいと思いますが・・・。不安が続く中でそれに耐えていろいろ考えながら頑張って下さい!!

Q.今回、ビースマイルの活動に参加しようと思ったきっかけを教えて下さい。

代表の本先生に誘われたのがきっかけです。先生とは今同じ雑誌で作品を連載していまして。じつは、増刊サンデーを読み始めた最初の号に先生の新連載の第一話が掲載されていて、僕が唯一ファンレターを出したことのある先生でもあるんですよ。そういったご縁もあり、今回参加させていただくことになりました。ビースマイルの活動自体にも興味を惹かれました。

『鈴木先生』では、あえてどこにでもいる普通の子どもに光をあて、誰しもが抱えている問題を優先してとりあげています。ですので、ビースマイルではその逆に、特殊な環境・状況・問題を抱えている子ども達に対して、励ましを送っていきたいと思いました。

Q.今回は御蔵島での「ドルフィンプレイ」という形で参加されましたが、子ども達の印象はどうでしたか?

参加した子ども達の中には大きな家庭の問題を抱えた子ども達もいると伺っていたのでかなり覚悟して来たんですけれど、御蔵島という特殊な場所のマジックもあったからでしょうか、実際に会ってみると、皆、思ったより接しやすい印象がありました。もちろん個人差はあるので一概にとは言えませんが。

Q.御蔵島での子ども達との体験で何か印象に残ったエピソードはありますか?

たくさんありますが、一番初めに思い浮かんだのは、少人数で世代や年齢の違う人間同士が生活を共にするという縦割り型のケアの方法は、あるタイプの子ども達にはとても有効なんだという実感です。子ども達を観察すると、普段の、同じ年齢の生徒とくくられて扱われている生活ではそこで求められる「フツウ」からはみだして、劣等性や問題児だと自分でも思い込んだり他者にも思われているような子でも、ぼくら大人や、年上の子、年下の子と交じり合って御蔵島に滞在している間はごく普通の“良い子”なんです。でもそれは、別に子ども達がいい子ぶって演じているわけではなく、それはそれで彼らの本来の姿だと思うんですね。だから、こういった環境にいられたらそもそも問題は起こらなかったかもしれないな、と感じました。ただ、現実問題として今の日本ではそれは非常に難しい。とても考えさせられました。

Q.今日は写真交換会ということで、御蔵島から帰って初めて子ども達と会う機会があったのですが、子ども達の印象はどうでしたか?

意外ですが、御蔵島にいる時よりさらに楽しそうでしたね! 島での生活で苦楽をともにした思い出深い仲間たちとの再会の喜びということなんでしょうね。

Q.武富先生は以前にもビースマイルで施設訪問をされましたが、今回は施設の外での活動ということでCROP(NPO法人)さんのドルフィンプロジェクトに参加してみてどうでしたか?

とても有意義でした。他のマンガ家さんもどんどん参加してほしいと思いましたね。また、大阪の施設訪問(福祉施設「水上隣保館」を2010年5月に訪問※ブログへのリンク入れる)とは別の体験だとも感じました。京都での施設訪問では主客があるというか、僕らは子ども達に絵を描いて、子ども達はそれを受け取るという“立場の別”があったと思います。でも御蔵島では、子ども達と同じ事を体験するという仲間的な要素が強かった。逆に子ども達にお世話になったり、イルカのことや海への潜り方とかを教わったりして(笑) 施設訪問とは違うアプローチですが、どちらも心のケアとして、それぞれ違う効果があるのではないかと思いました。

Q.最近ニュースで虐待の報道が増えていますがどう思われますか?

虐待そのものも増えているのかもしれませんが、それが表面化して来たという事でしょうね。ニュースやメディアで取り上げられる事が増えたというか。虐待の原因については本当に様々あると思うので一概には言えないと思うのですが、社会自体が息苦しくなっているのではないでしょうか? そうすると周りもフォローできなくなるし、より問題や事件に繋がりやすくなっている気がします。

Q.最後に今回の御蔵島ドルフィンツアーで一緒に過ごした子ども達に一言お願いいたします。

僕自身そんなに積極的にこちらから話しかけるタイプではないので、そんなに冗談とか言い合ったりとかするシーンは少なかったとは思うのですが、それでもみんなのことが一人一人とても印象に残っていて、普段仕事でマンガを描いていても思い出すんです。同じようにみなさんも時々僕の事を思い出してくれていたら嬉しいなと思います!

武富先生漫画

■取材後記■

些細なことなんですが、子ども達と目があったり、笑い合ったり・・・そういったことが御蔵島ではすごく印象に残っているんです。とても嬉しそうに話して下さる武富先生がとても印象的でした。お忙しい中、本当にありがとうございました。

取材:柏葉比呂樹

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